人生に飽きたから本気出す

人生に飽きた内向的な男が幸せになる方法を真剣に考えるブログ

人と比べることの無意味さを知る

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他人と比較して落ち込むことは往々にしてある。

子どもの頃よりも、社会人のほうが比較対象は多い。

なぜなら、30歳くらいにもなれば、生き方が多様化してくるからである。

 

例えば、すでに結婚して子供がおり、大企業勤めで出世コースの人がいる。一方就職がうまくいかずにフリーターを続けている人もいる。

ステータスだけではない。マインドも多様化してくる。世間体の良い会社に勤めては毎日残業で愚痴を言い続る人もいれば、はたまたやりたいことをやってお金がなくても幸せーっていう人もいる。

 

子どもの頃には考えもしなかった、自分と周りがはっきりと違うこと、自分には持っていない何かを感じると、それに比べて自分はなんてダメなんだろう、とかネガティブに考えがちだ。

 

一旦は「自分は自分」と言い聞かせても、またすぐに自分の持っていない何かを持っている人が現れると、すぐに比べてしまう。それが良くないと分かっていてもそうしてしまいがちなので、いい加減、本気で対処法を考えることにする。

 

 

 

なぜ比べてしまうのか

人には社会性が備わっている以上、比較するのが性である。

狩猟時代には、1人よりも複数人で獲物を捕らえたほうが捗る。複数人で狩りをするなら役割分担が必要だ。一番獲物を狙えるポジションにいる奴は当然、強くなくてはいけない。強いやつはその社会において、現代でいうところの勝ち組だ。良い嫁が手に入り、食料の分け前も多い。

つまり、古代から人間は社会性の中で勝ち負けを決めてきた(と思う)。

 

形容詞は対でできている

形容詞のほとんどは、対だ。

例えば、「好き」と「嫌い」、「美しい」と「醜い」、「強い」と「弱い」など。

これは日本語に限らず、世界共通だ。

 

なぜこのような対の言葉ができたのか

おそらく、人類が誕生する前から、「好き」とか「強い」とかそういう感情のようなものはあったように思われる。動物はフェロモンの強さによってモテるモテないがあったりするそうだが、結局それはDNA的に「強い」とか、種の保存のために「好ましい」とかによって決まるのだろう。

 

そのように考えると、人間はそういった事象を言語化してきたわけだから、形容詞が対になるのは理にかなっている。そして、ひとたび言語化されたものは概念として広まっていく。つまり、あらゆることを対で考えるような思考が、長い間掛けて人間に染みついてきたのではないか。

 

どうやってDNAにあらがうのか

人間だけが唯一理性を持った動物である

なぜ自分が人と比べるのか、どういう点で比べるのか、比べてどうなりたいのか、など比べることに対する様々なアプローチをかけることが有効だと考える。

 

比べたがるのが人間の性だが、比べることのメリットデメリットを把握した上で、自分なりの対策を取るということが、理性を持った人間しかできないことである。

 

しかし、我々はその前に大前提を知っておく必要がある。

 

配られたカードで勝負するしかない

大前提として、人は生まれながらに平等ではない。生まれる場所も、家柄も、親も何も選ぶことはできない。ドバイの富豪の家に生まれることもあれば、アフリカのスラム街に生まれることもある。DNAレベルで無茶苦茶モテまくる奴もいれば、DNAレベルで無茶苦茶モテない奴もいる。

つまり、人間は生まれながらにバックグラウンドが異なるのである。

 

人と比べる大前提として、他人と自分は全く異なる人生を歩んできたことを考慮しなければならない。

 

人と比べる時のマインド

しかし、人と比べる時のマインドとして、比較対象のすべてのバックグラウンドを考慮はしない。多くは、比較したい一面のみを切り取って解釈する

 

例えば、SNSにおいて、友人が充実しているような写真をあげている時、それに比べて自分の生活は…と思うときがある。この時比較しているのは、自分が写真を見たまさにその瞬間と、写真に写っている時の友人しか比較しておらず、自分の楽しかった時間や、友人の充実していない時間を考慮に入れていない。

 

こんな当たり前のことにもかかわらず、素直に楽しそうで何より、という感情よりも、嫉妬とか、妬み嫉みの感情が大きくなって、SNS疲れを起こしている人が多い。

 

なぜそこを比較するのか

下を見て安心するより、上を見て落ち込むほうが多い(気がする)

なぜこのようなことになるかというと、やはり人間の社会的欲求だったり、承認欲求によるところが原因だろう。

 

マズローの欲求誤断開設については、以下を参照されたい。

jinsei-akita.hatenadiary.jp

 

人間には人から良く思われることで満たされる欲がある。そして、「良く」思われるの「良く」は相対的であるため、一般的よりも上を考えがちだ。

だから、上と比べては、自分は社会から承認されていないんだと落ち込んだり、相手に対して嫉妬したりする。

 

最終的にどうすれば比較しなくなるのか

今まで述べてきたように、人間が人と比べることはある種本能による。

しかし、比べる部分は、相手の極一部分にすぎず、全体的なバックグラウンドを捉えていない。つまり、相手の良いところと、自分の悪いところを比較しているため、そもそも、無効試合みたいなもんなのである

 

めちゃくちゃ運動神経抜群だけど、勉強は全く駄目のA君が、めちゃくちゃ頭が良いが、運動音痴のB君に「Bは頭が良くてうらやましいよ、それに比べて俺はダメダメだぁ」と凹むようなものである。A君はこの時、自分の運動神経の良さも、B君の運動神経の悪さも考慮していない。B君はB君でA君の運動神経をうらやましがっているかもしれない。

 

以上から、比較対象のある一部分を切り取って比較し、勝手に凹むのは全くの無意味である。それよりも、自分の良いところ、優れているところに気づき、比較しない自信を持つほうがよほど有益である

 

 

 

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